『文化系トークラジオLife』は「今」を考える番組だ。
〜常連リスナーが抱える「文化系」的苦悩w〜


安東三


『文化系トークラジオLife』は「今」を考える番組だ。
「今って何?」みたいな話を、7人からなるパーソナリティたちがリスナーからのメールとともに語り合う、
いたってシンプルな番組。そこには明確に「今とはこんな時代です」という結論すらなく、
ただひたすら
「今って何?」ということをあーだこーだしゃべるだけ。
「本当にそんなんで楽しんでる人がいるの?」と疑わしく思うだろうけど、
ところが、こんなシンプルな番組に異様に喰らいついてくる人間がいるのである。
そういったある種の人々のことを、この番組は「文化系」と呼ぶ。

なぜ彼らは、そんなに「今って何?」に食いつくのか。
それは、「文化系」の特徴のひとつに「今に満足できない」というのがあるからだ。
たとえば「文化系」的な自意識を見てもそう。「文化系」は、「見せたい自分」と「他人の目に映る自分」の間に
溝が存在することくらい、ちゃんと知っている。だけれども、「他人の目に映る自分」のしょぼさ加減を直視する
気概は持ち合わせていない。だから、ついつい今ここにいる自分をごまかしたくなって、
ほかの人があんまり触れない文化だとかに走ったりする。
それは一種の現実逃避といえる。
文化ってのはその中で戯れ続けて一生を終えられそうなほど、確かに面白く、奥深い。
しかしそこで中途半端なのが「文化系」たるゆえんで、本当にゲームならゲームの中だけの世界、
ネットならネットの中だけの世界、小説なら(以下略)・・・と、それぞれ特定の世界の住人となって、
現実に帰らない覚悟を持っているわけではない。そもそも文化とは、社会的事情と密接に関わりがあるのだ、
と捉える「文化系」は、文化というフィルター越しであっても「今」という現実を見ようとしている。
あんまり良いものではない「今」と、甘い香りのする文化との間で揺れながら、
それでもやっぱり「今」と関わっていたいと常に考えているのだ。
満足できない「今」を、なんとかしなきゃ、と。

さて、そんな「文化系」リスナーであるところの僕には、現在気になっていることがある。
「現実」や「今」を「なんとかしたい」って言うけど、いったい誰にとっての「現実」や「今」が、
「なんとかしなきゃいけないもの」なのだろうか。
もしかしたら、「自分にとっての現実」が辛いから、
「変えなきゃ」と言っているのかもしれない。
誰かのためにもなるかもしれないけど、何よりも自分のために「今」を考える。
モチベーションが高いのも当然だ。しかし、もしも自分が「現実」や「今」をありのままに
受け入れられるようになったとき、もう考えることはやめるのだろうか・・・?
「文化系」の抱える不全感を過去のものにして、「昔は俺もそうだったよ」と後輩「文化系」に語るのだろうか・・・?

これって実はものすごく難しい。

自分が「現実」や「今」を苦しいと思う時期から抜けたからといって、考えることをやめるのは自分本位だし、
それこそ自分にとっての「今」を「なんとかしなきゃ」と言ってるのと変わらないと思う。
しかし、「怠慢はいかん!」といって攻め一辺倒を続けることは、自分にとって「現実」や「今」が
このままでもいいと思った瞬間、つまり守りの意識を持った瞬間から、結構難しくなってくるのではないか。
今守るべきものを、今守ることだって、立派に「今」と向き合った結果だと思うのだ。

僕が今『Life』を聴きながら考えるのはそこだったりする。

「今」を苦しく思う人と、「今」を続けたいと思う人。それぞれにとって重要な「今」が交錯する『Life』。
そのスタンスを続ける限り、僕は『文化系トークラジオLife』のリスナーであり続けるだろう。